デュシャンの子供たち -24ページ目

9日目:ひなとピラミッドと帽子

テレパシー実験は続いています。いつもどおり左が元絵、真ん中がいつもの彼、右が新人君です。新人君からは受信時におけるこのような報告がありました。「メールに気づくのが遅れて時差が(泣)。きのうほどではありませんが18時以降はお茶だけ、そして今夜はベランダに出てみました。雨もようの空に浮かんだのは帽子です。」同じとまでは、いきませんでしたが、形状はかすりぎみですね。昨日に引き続き、好調です。いつもの彼くんは不調らしくどうやら心はエジプト辺りに漂っているようです(笑)まぁそれも無理からぬ事情があるにはあるのですが。

テレパシー実験をする際にチキュウジンがよくやるマチガイがあります。それはジンクスを探そうとすることです。たとえば、新人君は空腹のほうが受信率が上がった気がする、と今日もすきっ腹をこらえての受信を試みました。もちろん、いろいろやってみるという点で彼は何一つ間違ってはいませんが、もしここで「空腹のほうがテレパシーはよく伝わる」と思い込むとそれはマチガイというよりも、単に自分の可能性を狭くしているにすぎません。

チキュウジンは法則を見つけるのが大好きです。わたしも一時大好きで、どちらかというと法則を見つけるのは得意なほうですが、それは単純なある範囲に限定した場合にのみ有効な法則で、もっと広い場所や時間、つまり条件が変わると法則などというものは通用しない場合がよくあるのです。ですから、「空腹だとテレパシーが伝わりやすかった」としても、たった1回2回の計測で、簡単に答えを出してはいけません。一時彼が能力を開発する途上で、一時的にジンクスとして利用すれば有効かもしれません。しかしジンクスというものは賞味期限があるのです。それをわきまえていれば、ジンクスも役に立ちます。
一時的に「テレパシーは伝わる」という観念を強化できるならジンクスは大歓迎です。

人間とは「観念」を持っていて、人それぞれとても個性的な「観念」を持っていて、それゆえに何か事実を観察する時に「観念」のフィルターを通してしまうので、本当の事実とは随分違う捉え方をする生き物だと思います。ですが、本当の地上のルールはこの「観念」の狭いフィルターを超えて、いかなる条件であろうと、普遍の法則に繋がるこtこそが人間の醍醐味でもあります。例えばミュージシャンやアクターといった人たちは、
あまり上手でない人はやたらとジンクスを使いたがりますがある域を超えた人にはそんなものは必要なくなります。一瞬にして日常の波動から彼らの表現という次元の波動に彼らは一足飛びで入ります。それはちょうどテレパシーを使う領域ととても似ています。現にミュージシャンは明らかに言語領域のような脳は使わず、直感力やテレパシーのやりとりをしているとしか考えられない演奏を時に発揮しています。優れた役者やダンサー、芸術家、スポーツマンなど、仕事がなんであれ、その域で自分の仕事をする人は沢山いらっしゃいます。ですからテレパシー実験は当たるかどうかよりも、この「観念」のフィルターをはずし、より広い法則、普遍の宇宙の法則を学ぶためにやっています。

8日目:太陽と豊穣と目

一番左が元絵。真ん中が最初からの彼、右が新人くん。うむむむ。まだほんの1週間。ドンマイ。被験者達はそれぞれに実験状況を工夫しているようです。新人君は、お昼ご飯以後、何も食べずに臨んだ模様。毎日違う環境にしてみてるそうで結構楽しんでくれているようです。最初からの彼のほうはというと、電車に乗ってる所だったそうです。帰宅後思い出して描いた模様。

7日目:お林檎蛸鬼

被験者が2人に増え2日目。一番左が送った絵、真ん中がいつもの彼、一番右が新人君。さっぱり受信できてません。共通点を探すほうが難しいですね(笑)わたしはどういう所で送っているかというと、パソコンの傍や、決して静かな環境でもなんでもない気が散りやすいような場所と、こだわりなくやっています。科学者の実験ならば、完全に同じ条件で、やらないとデータとして周囲が認めてくれないのだろうけど、わたしは気にしません。なぜならまずは楽しむためにやっているのであり、本当のテレパシーならば、騒がしかろうがどこであろうが関係なく届くに決まっているからです。
私はテレパシーは電話やネット、ラジオと同じようなものだと思っているので、チャンネルさえあえば、受信できるし、受信機であるその人の性能がよければ、綺麗に受信できる、そういうもんだと思います。送り手の能力に問題はないか?という疑問も出てくるかもしれませんが、透視能力の実験では、送る方はあまり関係ないようなので、このスタイルで行きます。受け取る側も、お茶を飲んだり、友達とメール中だったりと、妙に集中しすぎず、片手間に受信した時のほうがいい線いってます。テレパシーの場合、リラックスした集中力というものがいるような気がしています。

6日目:被験者がふたり

今日は、被験者が2人います。この実験に興味をもって、参加してくれました。条件は全く同じで、同時にメールで知らせて受け取ったイメージをこちらに送ってもらっています。一番左が元の絵で、真ん中がいつもの彼です。これ以外にも何枚か描いてくれましたがどれもハズレでした。一番右が新人です。どうやら、どちらかが、もう一方の相手のイメージを拾ったみたいですね(笑)いつもの彼が言うには、何かしながらなんとなく描いたほうがシンボルが近く、昨日今日と、集中して臨むと何もわからない、と言っていました。どうやらプレッシャー負けみたいです(笑)新人さんもやや緊張気味です。ところで画像が上手く見えません。同じ設定の画像なのに何かがおかしいです。×をクリックすると見えます、原因わかるまでこのままですみません。

せ、狭いっ

小学1年生ぐらいの頃でしょうか。
これも突然気がついたことです。
目を瞑ると、外の世界は見えない代わりに渦が見えたり稲妻が走るのが
見えたり、紫や緑色のボールが遠くへ移動するのが見えたりしますが
同時に大体同じ場所で、「何かの映像」を想像することも、出来ます。
当然、子供ですから、いっぱい空想をするのですが、
ある日ふと思いました。

「アタマの中の広さってどのぐらいなのかな?」
この目を瞑った時の「視点」をどこまで移動させられるかやってみました。
それで心の動ける範囲がわかるのではないかと考えたのです。
あまり遠くへいけません。
アタマのてっ辺と思しき場所よりもう少し外側ぐらいまではいけそうな
気がするのですが、それ以上がイメージできません。

では体のほうはどうだろう?
子供はみな、自分の体にとても興味があって、指で遊んだり
触ったりします。わたしももちろんそうで、自分の体は見えない
場所まで「感覚があるころ」を面白がっていました。

しかし、やはり、この足の先より外側を「感じること」ができません。
「感覚」はこの体の内側に限られていました。
あれれ。なんかおかしくないか?

次の瞬間気づいたことです。

「私はこの体の外には出られない」

恐怖の瞬間でした。
私はこの小さな小さな、機能の乏しいショボショボの装置の外には
出られないし、何がなんでもこの装置を使って、移動したり、手を
伸ばしてモノを取る以外は何も出来ないと気がついたからです。

わたしは たった ひとりで
この体だけを たよりに 
ここで 生きていかねば ならない

こればっかりはおとうさんやおかあさんですら、
助けてはくれないのですから。
私は小さな胸にしっかりと決心をしていました。
この体を大切にしなければ、と。

食事をする不思議

なんの映画だったか、小説だったかで天使が地上に人間の肉体をもって
降りてきた時に「これが寒いという事か」と感激する、というシーンが
あった気がします。

5感とは、人間ならではの特権のようですね。
天使とか、高次の存在にはこーんな楽しい感覚がないのでしょうか(笑)

さて、私の場合、小さな子供時代、ある時ふと、感じる違和感に
何度も翻弄されながら大きくなったようなものでした。

たとえば。
毎日ごはんを食べるのはとてもうれしいしおいしい。
おなかが満腹になるのにもなんの疑問もなく、そういうものだと。

でもふと、気づくのです。

「なんで、歯が生えているのだろう。何これ気持ち悪いっぱい並んでて。」
「これで食べ物を噛み砕いて飲み込まないと命が持たないのだなんて不思議」
「他の命を奪って生きてるんだ・・・」
「飲み込んだ食べ物はなんてグロテスクなものに変わるのだろう」
「なぜ私の体の中でこんな気持ち悪いものが作られるの?
なぜこんな美しくないシステムに縛られて私は生きなければならないの?」
「排泄。なぜこんな汚いものを毎日からだの中で作るの?」

あぁ。人間というシステムの不思議。
あー人間やるってなんて不便で粗雑で気持ちの悪いことなんだろう。

この気持ちをなだめるのに、
人間の機能を受け入れ、慣れるのに暫くかかりました。

人間になるという事

誰でも生まれてすぐの子供は、自分の体になじめず、上手く使えず、
思い通りにならず、泣き喚いているものですよね(笑)
友人が自分の子供が2歳ぐらいの時「少し自我が芽生えたから、
思い通りにおもちゃに手が届かなかったりすると猛烈に泣くのよ」
と面白そうに語っていたのでそうなんだろうと思います。

2歳よりはもう少し大きくなっていたと思います。
1から10まで、数の数え方を教えてもらっていて、1,2,3,4,5
までは、指を開いていって言えるのですが、5の次を10と言ってしまい
何度か言い直しをさせられて、少しずつ数が数えられるようになった頃です。

はっきりと、気づいた事があります。
「私には、おかあさんや、おねえちゃんの 考えていることが わからない」

それまで私は自分の頭の中で考えていることと同じように相手の心の中にも
自由にわかるのが当たり前だと思っていたのに、どうも考えていることを
言葉に出さない部分は全く知ることができないのだ、と突然わかったのです。
その時の衝撃は忘れられません。
私にとって、自分と他人、という、個を理解した瞬間でもありました。
このとき私は人間になったと気づいたとも言えます。

生まれた頃の記憶

生まれてすぐの記憶、貴方はありますか?
私はせいぜいはっきりした記憶は2つぐらいからでしょうか?
自分が離乳期に、少しずつお茶碗でおもゆを自分でスプーンを持たされて
食べる練習をしたのは憶えています。みんなと同じがよくて、お箸がいいと
ダダをこねたのを憶えています。
離乳食を食べながらもまだお乳を温めてもらっていたのも憶えています。
その頃には母は母乳ではなく、哺乳瓶を使っていました。

多分これが一番古い記憶なので、よく言われているような
前世を覚えているとか、おなかの中の記憶があるとかいうことはありません。
前世の記憶があるようなウチュウジンの子供達が今は沢山生まれているそうで、
彼らをインディゴチルドレンとか、更に進化した子供をクリスタルチルドレンと
呼ぶらしいです。

以下はインディゴチルドレンの特徴。

1・インディゴは尊厳を漂わせながらこの世に生まれてくる
(多くの場合、生まれた後もそのように振舞う。)

2・彼らには「自分は存在するべくして存在している」という気持ちがあり、
他人にそれを理解されないと、気が動転してしまう。

3・自己評価には重きをおかない。彼らはよく親に「自分は誰なのか」を語る。

4・絶対的な(説明や選択の余地を与えない)権威を受け入れない。

5・特定のことをあっさりと否定する。例えば並んで待つ事は、彼らには難しい。

6・創造的思考を必要としない儀式的なシステムには、欲求不満を募らせる。

7・家庭でも学校でも、物事のよりよいやり方を見つけ出すので、「システム・バス
ター」(いかなるシステムにも従わないもの)のように思われてしまう。

8・インディゴの仲間と一緒にいるとき以外は、非社交的であるようだ。自分に似た
ような意識のものが周囲に誰もいないと、しばしば内向的になり、誰からも理解して
もらえないと感じる。そういう子供達にとって、学校生活は非常に難しくなる。

9・罪悪感を持たせるようなしつけ方、例えば「そんなことをして、お父さんが
帰ってきたら怒られるわよ」といったような説教をしても効果がない。

10・自分が必要とすることは臆することなく伝える。

the indigo childrenより転載


さて、あなたはいかがでした?
私は幾つか当てはまると思いますが、どちらかというと、彼らをサポートするべく
先に生まれてきたタイプではないかと思います。今までのチキュウジンとより
近い感覚で、そういった習慣を教えてくれる親元で育ちましたから、ある程度は
チキュウジンらしく生きているのです。
年代的に、インディゴチルドレンより私はかなり年上ですし、いわゆる
インディゴチルドレンという子供達よりはるかに発達した能力の持ち主でありつつ
上手に地球に適応している人も周囲に沢山いますので、ウチュウジンが
地球になじめない人達というわけでもありません。

ある程度地球でのやり方をチキュウジンと同じレベルで出来るすごい
ウチュウジンが沢山いて、私達のようなちょっとぼんやりとした仲間を
サポートするように、私は更にウチュウジン指数の高い人達をサポート
しやすい立場ではないかと今は考えています。

5日目:靴下と牛乳瓶

ソックスというよりは靴下って感じの絵にしてみました。見事はずれました。今日は約束の時間、彼は5時間も寝過ごしたので、再度送りなおしたのですが、どうやら寝すぎて申し訳なさで動揺したようです。テレパシー受信能力には精神状態が影響するのかもしれません。

ウチュウジンは辛いのだ

ウチュウジン達は皆、多かれ少なかれ、地上の様々な習慣や
「普通」と呼ばれる地域ルールになじめなかったり、なかなか理解できず、
苦労をしながら大きくなった人達ばかりで、自分は誰にも理解されないと
一種の諦観を抱えながら「普通」ではない、自分に気づかれまいと
一生懸命チキュウジンの輪に溶け込もうと涙ぐましい努力をしている
人達なのです。
ウチュウジンといっても普通の人間で、むしろ普通すぎるぐらい
普通の人間だと私自身は思っています。いや、今では理解しています。

「普通」とは何か?
そんなもん、ありゃせん。

という事に気づきさえすればここは暮らしやすい星です。
地球は本来「多様であるあらゆる多様」を受け入れる星ですから。
ですから貴方の周囲にある「普通」に自分が当てはまらないからと、
嘆く必要は全くないのだと私は思います。

だってチキュウジンだってものすごく沢山種類がいて、国籍が違うとか、
肌の色が違うからと僅かな違いを大きく騒ぎ立てているではないですか。

「普通」など、ない。
それぞれ、違っていていい。

それを受け止めあうのが本当の地球のルールです。